イベント04レポート:
理想のビール造りは大震災にもめげない
2012年2月26日(日)開催・RTPトークイベント04:レポート
東日本大震災を語り継ぐRELATION relayTalk第4回目は、茨城県那珂市の酒蔵メーカー「木内酒蔵(常陸野ネストビール)」の常務取締役、木内洋一さんをお招きした。米国のクラフトビール文化に惚れ込んでビール造りに打ち込んできた木内さんと木内酒造にとって、震災は想定外の被害をもたらした。それでも「被害者と思われたくない」と、ひたすら品質にこだわって、新たなビール文化を日本に根付かせようとしている。(文/藤田展彰 撮影/野口直哉)
■米国のクラフトビールに惚れて。
「ピンクジョーク」もおいしいお酒造りの秘訣
木内酒蔵は190年の歴史を持つ造り酒屋だ。家業を継ぐ立場だった木内さんが、最初に勤めたのはワインの輸入代理店。映画好きだったことから、休暇をとっては米国カリフォルニアに遊びに行った。そこで、一部の町に新しいビール工場がぽつぽつとでき始めていることを知る。「これは面白い」と興味を持ち、渡米するたびに「ご当地ビール」を試して回るようになった。それらがクラフトビールと呼ばれるものだと知ったのは、日本に戻ってからだった。
クラフトビールには、いろいろなスタイルがあり、味もそれぞれに個性がある。変わった風味のビールであっても、米国ではそれがいいという愛好家がたくさんいた。4大ビールメーカーが、ほとんど差のない製品を大量供給する日本とは対極だ。木内さんは、奥が深いクラフトビールの世界に惚れ込んだ。
1994年、ビール製造の規制が緩和された。各地に地ビールが生まれるなか、家業を継ぐために木内酒蔵に戻っていた木内さんも「ぜひうちでもやりたい」と、少し遅れて国内で50番目くらいに免許を取った。
当時の日本の地ビールは、観光地で製造し自前のレストランで飲んでもらう「ご当地ビール」のスタイルが定番だった。しかし、米国の有名なブルワリー(醸造所)は自前のレストランを持たず、地元のスーパーやレストランに商品を卸している。他のメーカーの出方を伺ってから、木内さんは米国流のやり方を模範にしてビール造りを始めた。ご当地名物のビールではなく、個性があり品質の高いビールを、それを評価できる人に届けたいと、全国で売り、さらに2001年には輸出を開始した。
木内酒造は、工場のそばで蕎麦屋も経営する。ピンクジョークを飛ばす木内さんが現れると、働いているおばちゃんたちの顔に笑いがあふれる。職人気質の酒蔵とはかけ離れた世界だ。「まじめに眉間にしわを寄せて造ってもいいけど、ビールは笑顔で飲んでもらう酒だから」。楽しさの演出がビール造りの基本だと木内さんは信じている。
next page■被害に屈しない。「被災したことを表に出してはみっともない」