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うつくしま ふくしま
─身近な家族のしあわせ だからこそ復興を─

モノクロ写真のなかを歩いていた。黒くそびえたつ山々、不気味にゆらめく白い山際。右手には鈴虫や蛙のかなでる音を、左手には川のごうごうと流れる音を耳に感じる。あたり一面は田んぼと野菜畑で、ひんやりと冷たい風がさわさわと草をなでる。ふと振り返ると、真っ暗闇の中で自販機だけが煌煌と光を放っていて、なんだか恐ろしい気分になる。
 
福島の夜を歩いたときのことだ。懐中電灯片手に、散歩にでた。(文/一宮 恵)


同じようでも変わってしまった 
懐かしのおばあちゃんち

福島県安達郡は母の実家で、数年に一度は家族で訪れていた。標高400メートル。中心街から車で1時間半ほど、山のくねくね道を田舎のスピードでぴゅんぴゅん飛ばす。あたりでも一番眺めの良いところに、その家はある。家の目の前には、「うつくしま百名山」に選定された日山がどーんと構え、すぐ右には岩場の多い大きな川。きれいに整えられた田んぼと野菜畑のじゅうたんが延々と広がる。祖父母は野菜やお米を育てているほか牧場も営んでおり、家の下に大きな牛舎とわらの山がある。ときおり牛がも〜と鳴く。牛舎に一歩踏み入れば、無数の牛たちが、なんだい、といっせいに黒い目を向ける。

2011年、8月16日。福島の実家には5年ぶりに帰った。車中から目をこらして様子をうかがっていると、子どもの頃みた風景とほとんど変わらないように見えた。昔と変わらずとうもろこしは隣と競うように背を伸ばしているし、田んぼのうつくしい緑やトマトの赤が鮮やかだった。人もみな穏やかだ。のんびりと時間が過ぎてゆく。

けれど、平和にみえるこの土地も、以前のように穏やかではなかった。
 
変わったのはこんなところだ:多くの家の瓦屋根にビニールシートがかかっていたこと。お墓が粉々になっていたこと。ところどころに仮設住宅があったこと。多くの人が無職になっていたこと。会話に混じるジョークの中に「セシウムくん」が頻出していたこと。浜通りの人たちの移住の影響で、パチンコ屋と居酒屋がたいそう繁盛していたこと。放射線を吸収するとされる黄色のひまわりの花が、ひときわ多く咲いていたこと。


家族の衝撃、わたしの衝撃

祖父母の家も、3.11で被害を受けた。
 
さいわい、みな命は助かった。家の損壊もほとんどなかった。祖父母の家は、今はもうほとんどないとされる昔ながらの建築様式を操る職人さんの手によって、釘を使わずほぼ木材だけで建てられていた。そのおかげ、と祖父は言う。

祖父母は、職を失った。牛も野菜も検査待ち。肉は売れないのに餌代ばかりかさむ。大事に牛を育てて何度も賞をもらったりもして、旅館や料亭におろすこともしばしばだったけれど、今は規制が外れても最安値で餌代にもならないかもしれない。国や東電からの保障はゼロ。政府から支援物資として届いたのは飴玉だけとのことだ。

放射線に関しては、最も数値が高い浪江町から2キロほどの地域にもかかわらず、2つの山に囲まれているおかげで周囲の数値はかなり低いという。風向きや地形など、人の力ではどうにもできない部分でころっと状況が変わってしまう。

不幸中の幸いと、不幸中の不幸。
 
3.11は、私にとって「恐怖」の記憶として心に刻まれている。当時わたしはフランスにいた。だから、揺れが怖かったのではない。

帰国してみると、家族はヒステリックになっていた。祖父母の家が被災したこともあり、他の家庭よりもショックを受けていたと思う。家は常にぴりぴりし、地震の話題で毎日ケンカのようなやりとりがあった。一時はテレビを見て笑うことも許されなかった。一つひとつの言動について叱られたり、外に出るのが不謹慎と言われたりした。

浦島太郎状態だった私は特に責められた。フランスではネットで震災の情報を仕入れ、ニュース記事を読んだり、津波で街が流される映像を見ては何度も涙ぐんだ。祖国がなくなってしまうような、目の前の現実ががらがらと崩れてゆく感覚すら覚えた。けれど同時に、当時の揺れを経験していないがゆえの、まるで映画のような、夢でも見ているような、現実味の乏しいふわふわした感覚も確かにあった。 それを家族に責められるのはとてもつらかった。私の想像力や理解力が足りないのだと思った。 ただ黙って家族の指摘を聞いた。黙っているから、さらに追い詰められた。家にいることすら怖くなってしまったが、そうする以外ほかなかった。

いつしか、3.11 のことは語れなくなってしまっていた。そんな中で久しぶりに訪れた福島だった。

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