RELATION relayTalk Project

RELATION Talk 03

イベント03コラム:「学校とは~」と括れるほど、学校の役割は単純でない

■津波を語り継ぐという使命
 
宮城県の東松原市にある阿部先生のお宅は、床上浸水で畳まで濡れたものの、流されることなく無事残った。それには理由があるという。

7、8年前、先生は家が古くなったことを理由に、当時家のあった高台から海の近くの広い土地に引っ越し、家を建て直そうと計画していた。すると寝たきりの祖母が、「あそこには建てるな。いまいる場所から下には建てるな」としきりに気にしながら亡くなったのだという。先生ら家族はそれを遺言だと考え、結局は別の高台にある土地に家を建てた。その家が、かろうじて残ったのだ。

「小さい頃、私はおじいさん達、おばあさん達が茶飲み話をしている、浜辺近くの囲炉裏によく行きました」

囲炉裏端では、決まってその土地で起きた津波のことが話題に登ったという。昭和8年(1933年)3月3日、午前2時30分に起きた昭和三陸地震による三陸大津波の話から、明治29年(1896年)6月15日、午後7時32分に起きた明治三陸地震による明治三陸大津波の話へ。さらには年号も不明瞭なずっとずっと昔まで、年配の人たちの話は遡っていく。そうして津波の被害が語り継がれてきたからこそ、地域の人々は常に津波への警戒を怠らなかった。しかし近代化の中で生活は変わり、子や孫に昔話をする機会が減っていった。次第に囲炉裏端のような憩いの場も消えていった。

「昭和の大津波のことがわかっていれば、逃げて助かった人がもっともっといる。なんで伝えなかったんだろう。私はこれを、悔いています」

阿部先生は教員として、学校の中、または地域の中で囲炉裏端でされていたようなお話を、子どもたちだけでなく多くの人へ伝えていきたいと語った。

ここで僕がわかったのは、学校で教えるべきことが地域によって違うということだ。全国共通で同じように使える完璧な教科書があるのではなく、様々な条件で教えるべきことは変わっていく。またそれでこそ、地域の中の学校は大きな意味を持つことになる。「学校には地域社会の中で果たすべき役割がある」ということが、先生のお話、思いから伝わってきた。

トークイベント終了後、僕は阿部先生に率直な気持ちをぶつけてみた。

「僕がこれまで考えていた学校と、阿部先生がおっしゃる学校には大きな違いがありました。結局学校ってなんだろうと、考えさせられました」
それを受けた阿部先生は、うつむきながら穏やかに言った。
「僕もよくわかりません」

「学校とは何か」、先生に「答え」のようなものを期待していた僕は、それを聞いて拍子抜けしてしまった。でもそれだけ、学校が負っている役割、先生が生徒に与えて行かなければならないものは、簡単には語りきれるものではないのだろう。きっと学校は、様々な役割が絡みあった状態で成り立っている。
 
いちから学校をつくっていく体験。それは学校を、その起源に近い段階から捉えなおす作業だったに違いない。「えんぴつとノートを用意しなければならない」という、とてもプリミティブな問題に直面しながら、一方で「何を教えるべきか」を考え直していかなければいけなかった。それらの過程を目の当たりにした僕が、「学校ってなんだっけ?」と自分の常識を疑ったのも、自然なことだったのかもしれない。「今まで通りにしてるだけじゃダメ」という状況を目にし、「今まで通りの考え」でいられなかったということだ。

最後に、先生がトークイベントでお話した以下のエピソードが、学校の役割について単純に理解することをよりいっそう難しくしたことを記しておきたい。少なくとも僕は、学校をこういった視点から考えたことは無かった。

『先生、学校が始まったら山の上から子どもたちの声が降ってくる。先生、それを聞いて思うんです。俺たちの生きる力はこれだよね、って』。町の職員の方が、私に向かって涙を流しながらおっしゃった。この言葉を聞いた瞬間、私の目にも涙がこぼれていました。学校が始まって間もなかったこの時、私は震災が起こってから初めて泣きました」。■

【執筆者プロフィール】鍵田真在哉(かぎた まさや)
1990年生まれ。広島県出身。法政大学3年。
デザイン工学部システムデザイン学科所属。「デザインでできること」をテーマとした団体「coto:Re(コトリ)」の代表を経験し、現在は人間・社会環境デザイン研究室(大島デザイン研究室)で、社会貢献のためのデザインを研究中。

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