イベント03コラム:「学校とは~」と括れるほど、学校の役割は単純でない
■計量できない授業
前段の「えんぴつとノート」の問題は、「希望のえんぴつプロジェクト」をはじめとする寄付を頼ることによって一応の解決ができた。次に問題になったのは、「学校で生徒たちのために何ができるのか」ということだった。学校が避難場所だったこともあり24時間学校に詰めていた先生方は、夜には灯をともした1本のろうそくを囲みながら、そのことについて長い時間をかけて話し合ったという。
「今となってみれば、すんごい面白かったです。だって何にもない中から学校をつくれたんですから」
阿部先生は続けた。
「校舎の半分は使えなくなっていて、学校に必要な設備や機材の多くは失われてしまっていました。学校には子供しかいないんです。でも、子供がいるんだから学校はできるよね、っていう発想です」
そうやっていちからつくられた学校の授業は、僕が考えていた授業の枠を超えたものばかりだった。例えば女川第一中学校の卒業生が震災後に描いた絵を黒板に貼り、生徒たちに問いかける。「この5人の子どもたち、後ろを向いているよね。どんな顔をして、どんな気持ちでいるのかな。笑ってはいないよね。みんな、なんで手をつないでんだろう」。それから、「春」という題で俳句をつくった、国語の授業。また別の機会には、「津波の被害を少なくするには今後どうしていけばいいか」という問いに、生徒たちが被災した経験、見聞きしたことをふまえて提案をしていく社会の授業。
これらの授業には、テストや偏差値は一切出てこない。学校では「テストで点をとっておけば問題なく過ごせる」くらいに考えていた僕は、そのことが気になった。しかし「学校で何ができるのか」を先生方が考え、いちからつくられた授業がこのような形をとることには、何か意味するところがあるように思えた。
そこでよく考えてみれば、僕が勝手に「あって当たり前」だと思っていたテストや偏差値は、「学び」を計量できるようにするための便利な数値、方法に過ぎないんじゃないか、と思えてきた。それは「学び」にとって絶対に必要というものでもなく、仮にテストが無くても学ぶことはできるだろうし、そもそも方法と目的は違う。
ここでわかったことは、「学校で学ぶことは必ずしも計量できない」ということだった。