RELATION relayTalk Project

RELATION Talk 03

イベント03レポート:えんぴつの次に、女川町に希望をもたらすものは

■震災を絵にする、「春」をテーマに俳句をつくる
「この5人は、なんで手をつないでいるのだろう」

インターネットで発信した効果で、様々な団体からプロジェクトの声がかかるようになった。宇宙開発に対する啓発活動を行う日本宇宙フォーラムからは、「子どもたちが作ったものを宇宙に上げませんか?」というお誘いがあり、「子どもが描いた絵を送ろう」ということになった。
阿部先生は、卒業生で絵の得意な女の子に電話で依頼した。
「いつまでに描けば良いですか?」という生徒に対し、スペースシャトルへの搭載の都合もあり、阿部先生は「3時間でお願いしたい」と頼んだ。
「えっ。3時間ですか?」
戸惑いながら、その学生は1枚の絵を描いた。
完成したその絵は、5人の子どもが正面を背に手を繋ぎ、津波で崩壊した女川町の前に立っている絵だった。

「こんなすごい国語の授業ははじめてだった」と、阿部先生が振り返るのは、同僚の国語教師、佐藤先生の授業。
佐藤先生は、その女の子が描いた絵を黒板に貼り、「この5人はなんで手を繋いでいるのだろう。どんな顔をしているのだろう」と、生徒達に問いかけた。

こうして徐々に、生徒と震災を振り返りはじめた女川第一中学校は、同じく宇宙フォーラムからの、「『春』をテーマに俳句を描きませんか」という依頼を受ける。最初、「春」というテーマは震災に直結するので、先生たちは心配した。でも、子どもたちには思ったよりも現実を受け止める力がある、と見込み、このテーマを生徒に託した。

選ばれたのは、「みあげれば がれきの上に こいのぼり」という、3年生の女の子の作品だった。
「なぜこの俳句を作ったの?」と聞くと、その女の子は「5月の連休中に、女川で1番高い建物に鯉のぼりが上がっているのを見た。亡くなった大勢の人達も、空からこの鯉のぼりを見ているのかも知れない、と思うと、涙が止まらなかった」と語ったという。

宇宙フォーラムに送られた絵と俳句は、NPO法人「みちのく復興の会」のご協力により、絵はがきになって売り出された。その利益を、生徒たちは「女川町のために役立てて欲しい」と受け取らなかった。売上金は、あしなが育英会と女川教育委員会に寄付されている。

■生徒と一緒に考える、女川のこれから
「『津波が来たらここまで逃げよう』という石碑を作ろう」

阿部先生は社会科を担当している。先日、1年生の授業で、「津波の被害を少なくするためにはどうしたらいいか?」という問いを出した。
「道路を広くすればいい」という提案に対し、「道路を広くしても、逃げない人もいる。寝たきりの人も逃げられない。逃げない人を助けて死んだ人もいるんだよ」という意見が出た。この意見を出した学生の祖父は、寝たきりの方を助けに行って命を落としている。
生徒達の実体験がひとつひとつの発言に活きる。他の地域の学校では絶対に出来ない授業だ。

この授業で出てきた課題は、「今回の津波の被害を、50年、1000年後の人に伝えるには、どうすればいいか」。
それに対して、「『津波が来たらここまで逃げよう』という石碑を作ろう。石碑のためのお金は、本を出して創ればいい。俺たちの町なんだから、俺たちで建てよう」と、子どもたちは話している。

「悔いに報いる為に、子どもたちの前に立ち続けたい」
そして、あのような極限の状態の中で、私たちのご支援をいただいた希望のえんぴつプロジェクトのこと。町中の人がそれぞれの職業や立場を顧みず、自分たちの生きる希望である子どもたちの夢や希望を育てるため学校を再開すべく取り組んだこと。その中で、子どもたちが少しずつ、明るい未来に向けて歩み出していること。これらのことを後世に伝えていくことが使命だと思っている。

「わたしの実家が助かったのは、祖母のおかげなんです」と、阿部先生は言う。
幼い頃、祖母と囲炉裏でお茶のみ話をしている時、何度も津波の話を聞かされた。1960年5月23日午前4時11分(日本時間)に起きたチリ地震津波、1933年3月3日、午前2時30分に起きた昭和三陸地震による大津波、1896年6月15日、午後7時32分に起きた明治三陸地震による大津波、更にずっと昔の津波。

阿部先生が、かつて家が古くなったので海のそばに新しい家を建てようとした時、病床の祖母が「建てるな」と反対した。「ずっと前にそこまで津波が来たから」と。その話を聞いて、建てるのを止めた。だから実家は助かった。
産業や生活様式が変わり、囲炉裏が無くなり、人々が祖父母と一緒に暮らさなくなったところに起こったのが、今回の津波なのだ、と阿部先生は指摘する。

逃げなかった人の中には、「ここまでは大丈夫」という判断をした。そして、沢山の命が失われた。「わたしは45年間浜に生きていて、祖母に話を聞いていて、なぜ津波の恐ろしさを伝えられなかったんだろう。その悔いに報いる為に、子どもたちの前に立ち続けたい。『今度津波が来た時はこうすっぺし』というのを伝えていきたい」。阿部先生は、そう決意を語った。

「いつまでも甘える気はありませんが、ご協力お願いしたい」


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