イベント05コラム:
自らの目で見、語った“リアル”
2012年4月9日(月)開催・RTPトークイベント05:関連コラム
リレーショントーク第5回目の登壇者は、気仙沼出身の大学生で、「Wa-Chord(ワコード) Project」代表の志田淳さんと、都内出身で大学を休学し、現在は気仙沼で活動している小林峻さんだった。被災地と東京、異なるバックグラウンドをもつ2人の学生が語ったこととは。そして、「学生だからできたこと」とはなんだったのだろうか。(文/難波寛彦 写真/野口直哉)
■それぞれの3.11
「あの日」、志田さんは都内にいた。地震のあと、「間違いなく津波がくると思った」という。家族と合流し、やっとの思いで辿り着いた故郷。それは自分の知っている姿ではなかった。“なんでオレたちが”何に対してかわからない、行き場のない苛立ちを感じた。
同じく、都内で「あの日」を迎えた小林さん。目にしたのは、排水管の破裂や大渋滞という異常な事態。リアルに「死」というものを感じたという。それによって入ったスイッチが、“なにかしなければ”という、現在の活動の原点となるものだった。
「あの日」、私は秋田の実家にいた。揺れがおさまると、テレビや暖房が消え、停電していることがわかった。しばらくして、携帯でワンセグを見ると、画面には濁流が田畑を飲み込んでいく様子が映し出される。「大変なことになった」そう思いながら、一夜を明かした。
■被災地、そして被災者のリアル
故郷を津波で失い、大切な人を多く亡くした気仙沼の人々。だが、目の前の問題を解決することで精いっぱいで、心のうちを吐き出せる機会はなかった。そこで志田さんが企画したのが、気仙沼の学生が震災について真剣に語り合えるワークショップだ。学生たちが一様に感じていたこと、それは孤独感だった。周りに被災地の人がいない、苦しみを理解してもらえない、心ない声をかける人もいる。そのような状況の中で、学生たちは孤独を感じていたのだった。
一方、被災地のポジティブな側面を目にしたのは、ボランティアで気仙沼を訪れた小林さんだった。実際に被災地を訪れ、その悲惨な状況を目にした小林さん。当初の予定は一週間だったが、一か月ほど残ることに決めた。そこで見えてきたのが、被災地に住む人々の元気さだった。震災で受けた被害をある種のチャンスととらえ、新たに前進していこうとする人たち。マイナスをプラスに変えていこうとするスピリットがそこにあった。
震災から約1年。この間、様々なことがテレビを中心に報道されてきた。繰り返される津波の映像、苦痛にゆがむ人々の顔。あれだけの報道がなされているにも関わらず、上記のような実態はどれほど私たちに届いていたのだろうか。テレビを見てなんとなく実感したつもりになることと、実際に現場で目にすることは大きな違いがある。百聞は一見にしかずというが、まさにその通りではないだろうか。現地を自らの目で見て、現地の人と触れあった彼らだからこそ語れる“リアル”だった。
■学生だからできたこと
多くの人が震災関連の活動をする中で、学生という立場で活動を続けている志田さんと小林さん。学生だからこそ、今できることとは何だったのだろうか。
二人の答えに共通していたのが、”フットワークの軽さ”だ。失敗ができる学生のうちは、やりたいことをすぐ行動に移せる。それをサポートしてくれる大人がいる。フレキシブルに活動できることが学生の強みだと感じているそうだ。「無知だからこそできる力」もあると小林さんは語る。小林さんが被災地で感じたのは、地域間のしがらみだった。しかし、それはよそ者の学生にはそれは知りえないこと。何も知らずに地域に介入するからこそ、そこに突破口が生まれる。ありのままの自分で踏み込んだからこそ伝えられる誠実さがある。
大学の4年間というのは特別な期間だ。勉強が本分の学生だが、社会人よりも自由になる時間は多くある。そのため、やりたいことも見つけやすい。社会人は、そうはいかない。常に利益を中心に考え、自分がやりたくないこともしなければならない。その前に与えられた、いわばモラトリアムという期間で何ができるか。それが学生自身の方向性を左右するのではないか。
支援をしたいと思っても、何が被災地のためになるかがわからない人は多いはずだ。それに対し、2人は「とにかく被災地を訪れてほしい」と訴える。震災の映像を見て悲観したり、能書きを並べる前に、まず行ってみる。学生ならではの行動力が体現したメッセージだった。■
【執筆者プロフィール】
難波寛彦(なんば ひろひこ)
1992年生まれ。秋田県出身。玉川大学2年。
リベラルアーツ学部リベラルアーツ学科在籍中。様々な分野に関心があるが、ファッションとアートには特に興味がある。何かを文章というカタチで表現することについて勉強中。