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RTPpreレポート:「ふんばる」を伝え続けることの意味

■人の縁を頼って取材している
 
被災地での取材では知り合いの知り合い、というような「人の縁」がベースになっている。寺島さんをはじめ、同僚の記者達はそれぞれその土地について、取材を通して得た縁を持っている。どこも同じような瓦礫の山というわけではない。瓦礫の下には三輪車があったり、アルバムがあったりと、住んでいた人にゆかりあるものが残っている。震災以前にはこういうものがあり、こういう人がいた。そういったものさしを持ちながら、「この人は今どうしているんだろう」と思い、その人を訪ねていく。

■新聞の限界をはじめて意識した

記者としての仕事の傍ら、個人で「余震の中で新聞を作る」というブログの更新を続けている寺島さん。取材者と当事者というはざまで何ができるのか。そのひとつの結論としてブログを書き始めた。このブログは、被災者1人1人がどう生きようとしているのか、その希望を共有し、応援していこうというものだ。様々な人達の生きる気力、言葉がノートのメモそのまま、編集なしで書かれている。

「あまりにも広い被災地と、あまりにも多い被災者。その声をどれだけ伝えきれるかを考えたとき、新聞の物理的な限界にはじめて気づかされた」と寺島さんはいう。新聞のページ数、ニュースで伝えられることは巨大な事実の一部を切りとったものでしかなく、こぼれ落ちるものがあまりにも多い。

日本の新聞社のほとんどは、記者が個人でブログを書くことを好まない。「書くべきことは紙面で書け」というわけだ。しかし、河北新報社は寺島さんの申し出を歓迎した。紙面では書ききれないことがたくさんあり、それを伝えることは「記者の仕事として当然」と捉えたからだ。ブログ「余震の中で新聞をつくる」は、「新しいメディアの形」といった話よりもむしろ、「ブログという方法がそこにあった」(寺島さん)。そういった具体的で切実な思いから始まった。

■私は、被災の現実を自分ごとにできていただろうか?

3月11日の大震災以降、多くの学生ボランティアが被災地救援で現地に赴いた。しかし、私には、被災地の実情をあまりイメージできない状況が続いた。テレビなどの情報から、「こういうことが起きている」という理解はできたが、それが実感を伴って入ってこなかった。Twitter上では、震災に関する情報が飛びかい、善意によるツイートがあふれていた。それは基本的によいことだと思うが、それに対して何か「いやな感じ」を覚えた。妙な盛り上がりというか、熱気のようなものがそこにはあった気がする。
 
そんなふうに、私は震災関連の事柄を敬遠しがちだったが、だんだんそう言っていられなくなってきた。サークルで復興支援プロジェクトが始まり、そのために被災地のことをより知らなければならない状況が生まれた。また自分の中での意識も、ボランティアに行った仲間の話を聞くなどして、変わってきた。徐々に震災を「自分ごと」として捉えられるようになってきたと思う。

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