イベント02レポート:悔しさバネに、帰る日が来るまで
■祖先から子孫につながる思い
佐野さんのトークの後、会場からの質問・意見交換が行われた。「ぜひ除染のお手伝いや現地での農作業のお手伝いをやりたい」という人や、自分たちが最近始めた支援が空回りにならないようにお話を伺いながら考えていきたいという人。聴講した参加者それぞれが思うところを率直に話した。
その中で、実家が青森県八戸市にある女性が、「核燃料リサイクル施設が近くにあるので、もしそこで事故があったらどうなるのだろう、自分の生まれ育ったところは、自分の親は、地元にいる友達は、親戚はどうなるだろうと、お話を聞きながら考えていました」話した。これに答える形で、佐野さんは、こんな話をした。
息子夫婦と孫が栃木県に移住するとき、小学三年生の孫が、蔵の中に入って「これを持っていこうか、あれを持っていこうか」と探していた。
佐野さんの家は代々専業農家として、貧しいけれど力いっぱい頑張ってきた。それを息子に、さらに孫に継がせたいと思ってやってきた。
そこで、蔵の中で、孫に向かって「何年になるか、20年になるか30年になるかわからないけど、もしお前が戻って来れたら、この蔵の中身はみんなお前のもの。この家も、太い杉も、山も全部お前のものになるんだよ。絶対農業するんだよ」と話した。孫は「わかった」と無邪気に返事をしたという。
この話を紹介しながら、佐野さんは目に涙をためていた。祖先からずっと受け継いで発展させてきたものが、予想外のことで断絶になるかもしれない。その悔しさがにじんでいた。
仮設住宅に対して、福島大学からボランティアの申し出があった。それに対して、佐野さんは「仮説に入っている人が、いつどこで生まれ、どこで育って、誰と結婚して、どうやって生きてきたとか…自分史のようなものを作っていただいたらうれしい」と話した。これは近く実行に移されるという。故郷を離れたからこそ、そうした思いを書き残したいという気持ちが強まっている。
■飯舘の人の、土地への思い
「無理だろう」という意見もある中で、飯舘村長は「2年を目処に帰村を目指す」と宣言した。それは、「お年寄りが我慢できる限界は2年だ」と村長が考えたからだ。農作物を作ったり、若い人たちまで住むというのは無理かもしれないが、お年寄りは帰れないだけでもストレスをためてしまうのだ。
避難所での生活は村と断絶しているわけではない。仮設住宅のある福島市松川から飯舘村は車で1時間ほど。狭い仮設住宅に家財道具を置く場所はないので、大きい荷物や季節ものの服は自宅に残して、適宜とりに行く。また、一部の人たちは、村に雇われる形で「見守り隊」として盗難が起きないように村内を巡回している。耕作放棄地にしないために、畑では草刈りをしている。村が懸命に誘致した企業はまだ操業している
。
飯舘村はかつて冷害に苦しめられる土地だった。そこで一生懸命築き上げてきたものを、なんとしても復活させたい。その土地への思いは、都会の人間には想像ができない強さだと思った。■