RELATION relayTalk Project

RELATION Talk 02

イベント02コラム:環境を作った親、環境を壊した原発

2011年11月5日(土)開催・RTPトークイベント02:レポート

東京電力福島第一原発の事故による放射能汚染は、原発周辺の住民の生活を一変させた。長い歴史の中で、住民は祖先から受け継いだ土地を守ることで、「環境」を作ってきた。その「環境」を最先端の科学で作られたはずの原子力発電所が、一瞬にして破壊してしまった。その罪はあまりに大きい。それでも人は生きていかねばならない。そこにある「思い」とは。(文/坪田知己)

福島県飯舘村…。
福島第一原発の放射能汚染で全村計画避難になった家の蔵の中。どれを避難先に持っていこうかと考えている孫(小学3年生の男の子)に、祖母が言った。

「この蔵も家も、田畑も山も全部お前のもの。20年かかるか30年かかるかわからないけど、絶対にここに帰って、ここを守ってほしい」

RELATION relayTalk Projectのトークイベントでこの話をしてくれたのは、佐野ハツノさん。振り絞るような物言いだった。祖母の願いに「わかった」、と孫は言ったという。

佐野ハツノさん、62歳。佐野さんの家は18ヘクタールの水田を持ち、4頭の親牛を飼う福島県でも有数の農家だった。
3月12日、福島第一原子力発電所の水素爆発が、運命を変えた。飯館村は、福島第一原発から20キロ以内の「避難指示区域」、30キロ以内の「屋内退避指示区域」よりも外にある。水素爆発で空気中に放出された放射能が風に乗って飛来し、降り注いだホットスポットだ。

全村避難の指示が出て、40歳の息子とその家族は、働き場を求め、栃木県に移り住んだ。ハツノさんは、夫の幸正さん(64)と、福島市郊外の仮設住宅で暮らす。仮設住宅の管理人に任命されたハツノさんは、故郷を離れ、隣の部屋の生活騒音が聞こえる中でストレスを抱えた女性たちに、「縫物をやろう」と呼びかけた。その話を聞いて、東京の知人が呼びかけて、タンスの肥やしになっていた高級な着物を送ってくれた。「せいぜい5、6人だろう」と思っていた参加者は25人にもなった。手仕事をしながらおしゃべりをして、仮設暮らしのわびしさを解消している。慣れない避難生活で、たまに帰ってくる息子は体重が14キロも減った。

いま、飯館村では、除染作業の進め方が最大の関心だ。年間1ミリシーベルト以下ということなら、除染が相当程度進まなければ帰村できない。家屋、田畑、山林の順序で進めるというが、飯館村は7割が山林。家屋も山林に沿って建っているものが少なくない。「許容範囲が5ミリシーベルト以下なら」という意見がある。そうなると帰村は早まる。

菅野典雄村長は「2年で帰村」と言っているが、その保証はない。田畑は1年耕作を休むだけで、土壌がかなり荒廃する。2、3年も休めば、回復に10年以上かかる。除染についても、悲観的な専門家と、楽観的な専門家の意見は極端に分かれる。やってみなければわからないといのが実情だ。

飯舘村の肉牛「飯舘牛」は東北でも有数のブランド牛だった。昭和55年、村は大冷害で、作況指数が12まで落ち込んだ。そうした苦難の中で、稲作に頼らない特産品として、肉牛のブランド化に力を注いできた。そうした歴史が飯館村の土の中に浸みこんでいる。

工業化、高度成長の中で、都会はサラリーマンの世界。子供にはレベルの高い教育を受けさせることで、親は幸せを願う。農村では何代にもわたって受け継いできた土地が、子孫に渡す最大のプレゼントだ。それは何ヘクタールという広さで表現できるものではない。毎年作物を作り、肥やしを与えて育成してきた土壌そのものが、財産なのだ。

祖先たちが何十年、何百年と守り育ててきた環境を、原発事故は一瞬にして汚染してしまった。
「こんな風になって、悲しくて、悔しくて…」
トークイベントの間、明るく振る舞っていたハツノさんが、孫との話を紹介した後、涙を落とした。

農民にとって土地は、命そのもの。いつ帰れるか…1日も早く帰りたい…その思いは募るばかりだ。■

Share on Facebook